2008.
07.
22
15年ほど前、バンクーバーへ旅行に行ったときに聴きました。
スタンレー・パークという大きな公園が、街中の半島にあります。
その公園は、詳細やいきさつは忘れましたが、ネイティブカナディアンの人たちが、バンクーバー市にくれたものだということです。
ネイティブカナディアンの人たちは、所有する、という概念がない、自分のもの、他人のもの、という感覚がない。「わたしたちのもの」という感覚しかない、というようなことを聴きました。
その当時は大変驚きました。
ベトナムで、ストリートチルドレンの施設へ行きました。
子どもたちは、お客さまが来た事を喜び、10人ほどで一緒に食べていた、わずかな量のポップコーンを私にくれようとしました。
わたしは、「いらない」とゼスチャーしました。なぜなら、めったに食べられないかもしれない、わずかなお菓子を、私がもらうわけにはいかないと思ったからです。
けれど、子どもたちは進めてきました。2回ほど繰り返した後、その子どもは、一つのポップコーンを手に取り、自分で食べました。
ほら、ぼくは食べたから、だから食べて。
と、ゼスチャーしてきました。
もらって食べた方が、彼らはうれしいようだ、と思い、もらって一つ食べました。
子どもたちは、ほっとして嬉しそうに笑いました。何の屈託もなく。
所有する、とは、どういうことなのでしょうか。
「わたしのものだ」と、何かを所有すると
それを維持しよう、守ろうとする心の働きが出るように思います。
家、土地、車、お金。家族、会社・・
わたしも物を持ちすぎているな、と思うときがあります。特に書籍。
なるべく「わたしのもの」というものを、持たずに生きていけたら、
どれほど身軽でしょうか。
わたしのために
ではなく、
目の前の人だけのために
でもなく、
わたしたちのために、
人類のため
地球のため
宇宙のために
と意識が拡大していくほど、
エゴがなくなっていくのでしょう。
バンクーバーのネイティブカナディアンや
ベトナムのストリートチルドレンの
自然や人々とともに在る「私が」や「私の」という意識のない状態を
見習うことが私たちには出来るように思います。
所有せずに生きる、ということは、私の一つのテーマでもあります。
あなたは、何を「わたしのもの」から「地球のもの」にしますか?
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