2007.
12.
29
コア・クリエーションズ
と言う名称で、活動をしています。
「コア」「Core」には
「核心、中心となる、芯、中心」
と言う意味が
「Creation」には
「創造、創設、創立、世界、宇宙、万物、森羅万象」
と言う意味があります。
これらの意味をこめて、「あなたの核心から人生を創造する」ことを支援しています。
「核心」とは、本質、コアになるもの、本当の深いところで求めているもの、使命などと言い換えることが出来ます。
そして、改めて「Creation」と言う言葉の持つ意味についてここで書きたいと思います。
生きるということは創造の連続だと思っています。
現に人は、新たなものを創りだすことを通じて進化してきました。目に見える物質的なものだけではなく、精神的なものや、ある概念、価値感なども含めてです。
つまり、新しく何かを生み出すことこそが、人として人たる由縁でもあると思うのです。
だとしたら、これまである方法や価値感に忠実に沿って何かをする事ではなく、自ら何かを創りだすことが、人類全体の進化発展と言う意味では、自然な流れのように思います。
私が教育に関心があるのは、このことなのかもしれないと思いました。
私が受けた教育では、新しく何かを生み出そうとすることについて、それほど価値を置いていませんでした。
言われた事を言われたとおりにする事、既にある何らかの価値にしたがって行動をすることを主に教えられたように思います。(これは、銀行員時代にも似た価値感を感じました。)
美術や洋裁など工夫する余地のある、創造する授業が好きでした。
元来個性的なのかもしれませんが、まれに窮屈さを感じることがありました。
ひるがえって、大人になった今
何か行動を起こすときに、
「それをするまでにはこれが整っていないからできないのではないか?」
など、既に誰かが通った道と照らし合わせて、考える事はないでしょうか?
誰かが通った道は、誰かが創造した道であり、方法です。
一人ひとり、何かを手に入れるルートは違って当たり前で、ルートを手に入れる事が創造そのものでもあり、ゴールを描く事も創造そのものであると思います。
人生に型なんてないのではないかと思います。
一人ひとり、全く違う体験をして、全く違う気持ちになって、全く違う選択をしているのだなあと、今年も多くの方々と学びの場を共にして実感しました。
だからこそ、子どもたちに、何かを創造する、生み出す、自らがつくりだす、という力がつくといいなと願っているのだと分かってきました。
社会は「創りだす」ものだと思います。
社会に何かさせられるのではなく、社会や育った環境がこうだからという被害者になるのではなく、おかしいと思ったら自ら望む形に向けてアプローチする場が社会であるようにおもいます。
世間がこう言うから、という世間の目は、自分の中に作り出した他者であり、ほんとうの世間、社会ではないのではないでしょうか?
誰がなんと言おうと、私はこれをしたいからする、わたしはこの状態が心地いいからこの状態でいる、という自分の基準で、本当に自分が望む事をしている人たちであふれる世の中になったらいいなと思います。(もちろん人としてのルールを守った上で、自分を満たし、誰かのためにと言う観点で)
例えばコーチングの資格がないからコーチにまだなれない、とか、コーチングの資格を取ったけど、なるのは難しい。というのは、なにかの囚われなのではないかな。と思います。
例えば何かに躓いたから、もう自分の人生はおしまいだというのは、ひとつの角度からみた視点に過ぎないのではないかな、と思います。
「やる・できる」と決めれば出来るものですよね。それは昨今のさまざまな書籍や、情報が教えてくれている通りです。
全ての経験は、意味のある出来事で、何かを教えてくれているのだと思います。
どうかあなたにしかない道を、堂々と歩んでください。
と言う名称で、活動をしています。
「コア」「Core」には
「核心、中心となる、芯、中心」
と言う意味が
「Creation」には
「創造、創設、創立、世界、宇宙、万物、森羅万象」
と言う意味があります。
これらの意味をこめて、「あなたの核心から人生を創造する」ことを支援しています。
「核心」とは、本質、コアになるもの、本当の深いところで求めているもの、使命などと言い換えることが出来ます。
そして、改めて「Creation」と言う言葉の持つ意味についてここで書きたいと思います。
生きるということは創造の連続だと思っています。
現に人は、新たなものを創りだすことを通じて進化してきました。目に見える物質的なものだけではなく、精神的なものや、ある概念、価値感なども含めてです。
つまり、新しく何かを生み出すことこそが、人として人たる由縁でもあると思うのです。
だとしたら、これまである方法や価値感に忠実に沿って何かをする事ではなく、自ら何かを創りだすことが、人類全体の進化発展と言う意味では、自然な流れのように思います。
私が教育に関心があるのは、このことなのかもしれないと思いました。
私が受けた教育では、新しく何かを生み出そうとすることについて、それほど価値を置いていませんでした。
言われた事を言われたとおりにする事、既にある何らかの価値にしたがって行動をすることを主に教えられたように思います。(これは、銀行員時代にも似た価値感を感じました。)
美術や洋裁など工夫する余地のある、創造する授業が好きでした。
元来個性的なのかもしれませんが、まれに窮屈さを感じることがありました。
ひるがえって、大人になった今
何か行動を起こすときに、
「それをするまでにはこれが整っていないからできないのではないか?」
など、既に誰かが通った道と照らし合わせて、考える事はないでしょうか?
誰かが通った道は、誰かが創造した道であり、方法です。
一人ひとり、何かを手に入れるルートは違って当たり前で、ルートを手に入れる事が創造そのものでもあり、ゴールを描く事も創造そのものであると思います。
人生に型なんてないのではないかと思います。
一人ひとり、全く違う体験をして、全く違う気持ちになって、全く違う選択をしているのだなあと、今年も多くの方々と学びの場を共にして実感しました。
だからこそ、子どもたちに、何かを創造する、生み出す、自らがつくりだす、という力がつくといいなと願っているのだと分かってきました。
社会は「創りだす」ものだと思います。
社会に何かさせられるのではなく、社会や育った環境がこうだからという被害者になるのではなく、おかしいと思ったら自ら望む形に向けてアプローチする場が社会であるようにおもいます。
世間がこう言うから、という世間の目は、自分の中に作り出した他者であり、ほんとうの世間、社会ではないのではないでしょうか?
誰がなんと言おうと、私はこれをしたいからする、わたしはこの状態が心地いいからこの状態でいる、という自分の基準で、本当に自分が望む事をしている人たちであふれる世の中になったらいいなと思います。(もちろん人としてのルールを守った上で、自分を満たし、誰かのためにと言う観点で)
例えばコーチングの資格がないからコーチにまだなれない、とか、コーチングの資格を取ったけど、なるのは難しい。というのは、なにかの囚われなのではないかな。と思います。
例えば何かに躓いたから、もう自分の人生はおしまいだというのは、ひとつの角度からみた視点に過ぎないのではないかな、と思います。
「やる・できる」と決めれば出来るものですよね。それは昨今のさまざまな書籍や、情報が教えてくれている通りです。
全ての経験は、意味のある出来事で、何かを教えてくれているのだと思います。
どうかあなたにしかない道を、堂々と歩んでください。
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