2006.
01.
08
大阪で開催された、「次世代型教育フォーラム2006」に行ってきました。コーチングに携わっている方々が主体となって開催された教育フォーラムでした。
私は、コーチングを知れば知るほど、子どもの育つ過程に関わる人たちが、こんな風に子どもと関わって行けたら、どんなに素敵だろうか。という思いを持っています。
教えたり、価値を押し付けたり、指示したり命令したりするのではなく、子どもの話す言葉に耳を傾け、どうしたいのか意思を聴き、否定せず、興味関心のあることにトライすることをサポートする。見守って、子どのそのままの姿を認める。
このフォーラムが開催されることに気が付いた時には、分科会は満席でしたので、大ホールで開催された基調講演と、パネルディスカッションのプログラムに参加しました。
教育は今や大げさに言うと一億総教育評論家、とでも言えるくらい、誰しもが関心や問題意識をどこかに持っている分野なのではないか思うときもありますが、会場にもたくさんの人が訪れていました。
感想は、一言で言うと「参加してよかった!」。
岸英光さんの基調講演は、まずは教育からかけ離れたところから始まりました。
「教育」を語る前に、「教育」という枠組みを外すことから始める、というコンセプトで、「パラダイム」のお話をされました。
今までのやり方を変えるのではなく、器ごと、背景ごと変えることが必要という観点です。
「日本では、物事がマイナスになったときにしかものを見ない傾向がある」、ということをおっしゃり、全くそうだなと思いました。問題が起こってから、対処法を考えるケースが多いですよね。
それでは遅いと思います。だからこそ、予防のための学びが欲しい。予防医学や予防カウンセリングというものがありますが、ことが起こる前なら、簡単んに軌道修正できるわけです。ひどいことになってしまってから、対処するには相当なマンパワーや時間、金額を要します。
「Optimal」(理想的な、最良な、最上の)という言葉を挙げられ、教育は本来、ここを目指すものである、日本はノウハウがあっても、結果が出ない国である。知識や方法論を知っていても、ちゃんと行使されていなければ、行動を起こしていかなければ意味がない、とおっしゃいました。
教育に違った切り口を与える → ワクがとれる → 可能性が広がる
そのためには、まず、「やってみてもいいかな?」という許可を与える。そこから行動が生まれ、「試して感じる」ことができる。
「感じる」ことができれば、そこから「探求」が始まる。
「探求」「哲学」なくしては生きた伝承ができない。
体験から探求しないから、伝えられないのだ。と、日本人が苦手な「探求」「哲学」の欠乏について言及されました。
更に「答えは一つ」と言う考えはパラダイムであること(これは数年前に私もようやく身に沁みてきました。<参考>戦後の日本教育に二元論を導入したアメリカ人が、晩年、日本人に謝りたい、と言っていたという内容が日経新聞に掲載されていました)。
答えは一つという教育を受けると、答えが一つあるのが前提となり、外側に答えを探すことになる。自分で作り出す、自分で編み出すことができなくなる。
この構造は「依存」を産む。「答えを下さい」病になる。
だから世の中にはティーチとコーチが必要である。
コーチは魚つりをしている人に、魚を捕ってあげるのではなく、
魚の取り方を教えるのでもなく、
魚の取り方を相手に編み出させる人。
すると勝手に人は伸びはじめる。
それがいきいきとした活力、バイタリティである。
探求とは、「知っている」という前提ではなく「知らないのかも」という前提に立つと早い。
失敗してもいい、それを味わうことができればいい。
味わう場を提供できれば教育になる。
弱さがあっても怖さがない世界・社会
を文化的と定義し、ここを目指さないと考えがぶれてしまうだろうとおっしゃいました。
講演を聴きながら、昨年訪れた学校が思いだされました。東京コミュニティスクール、ラーンネットグローバルスクール、ドリームプラネットインターナショナルスクール、ベトナムこどもの家。
みな、自然発生的に沸いてくるものを大切にしていました。まさに「待つ」ということをしていました。「答えがたくさんある」ということや「感じる」ことに重点を置いていました。
すべてが繋がってきて、私の中でまた新たな視点ができ、本当に充実した一日でした。
体中で感じて、考えて、くたくたになったので、食い倒れの街大阪では「食道楽」に走らず、まっすぐに帰ってきました。
講演で伺った「バイタリティのサイクル」、私自身がまわしながら、子どもや、大人の心の中にいる子どもに関わって行こう、とつくづく思ったのでした。
私は、コーチングを知れば知るほど、子どもの育つ過程に関わる人たちが、こんな風に子どもと関わって行けたら、どんなに素敵だろうか。という思いを持っています。
教えたり、価値を押し付けたり、指示したり命令したりするのではなく、子どもの話す言葉に耳を傾け、どうしたいのか意思を聴き、否定せず、興味関心のあることにトライすることをサポートする。見守って、子どのそのままの姿を認める。
このフォーラムが開催されることに気が付いた時には、分科会は満席でしたので、大ホールで開催された基調講演と、パネルディスカッションのプログラムに参加しました。
教育は今や大げさに言うと一億総教育評論家、とでも言えるくらい、誰しもが関心や問題意識をどこかに持っている分野なのではないか思うときもありますが、会場にもたくさんの人が訪れていました。
感想は、一言で言うと「参加してよかった!」。
岸英光さんの基調講演は、まずは教育からかけ離れたところから始まりました。
「教育」を語る前に、「教育」という枠組みを外すことから始める、というコンセプトで、「パラダイム」のお話をされました。
今までのやり方を変えるのではなく、器ごと、背景ごと変えることが必要という観点です。
「日本では、物事がマイナスになったときにしかものを見ない傾向がある」、ということをおっしゃり、全くそうだなと思いました。問題が起こってから、対処法を考えるケースが多いですよね。
それでは遅いと思います。だからこそ、予防のための学びが欲しい。予防医学や予防カウンセリングというものがありますが、ことが起こる前なら、簡単んに軌道修正できるわけです。ひどいことになってしまってから、対処するには相当なマンパワーや時間、金額を要します。
「Optimal」(理想的な、最良な、最上の)という言葉を挙げられ、教育は本来、ここを目指すものである、日本はノウハウがあっても、結果が出ない国である。知識や方法論を知っていても、ちゃんと行使されていなければ、行動を起こしていかなければ意味がない、とおっしゃいました。
教育に違った切り口を与える → ワクがとれる → 可能性が広がる
そのためには、まず、「やってみてもいいかな?」という許可を与える。そこから行動が生まれ、「試して感じる」ことができる。
「感じる」ことができれば、そこから「探求」が始まる。
「探求」「哲学」なくしては生きた伝承ができない。
体験から探求しないから、伝えられないのだ。と、日本人が苦手な「探求」「哲学」の欠乏について言及されました。
更に「答えは一つ」と言う考えはパラダイムであること(これは数年前に私もようやく身に沁みてきました。<参考>戦後の日本教育に二元論を導入したアメリカ人が、晩年、日本人に謝りたい、と言っていたという内容が日経新聞に掲載されていました)。
答えは一つという教育を受けると、答えが一つあるのが前提となり、外側に答えを探すことになる。自分で作り出す、自分で編み出すことができなくなる。
この構造は「依存」を産む。「答えを下さい」病になる。
だから世の中にはティーチとコーチが必要である。
コーチは魚つりをしている人に、魚を捕ってあげるのではなく、
魚の取り方を教えるのでもなく、
魚の取り方を相手に編み出させる人。
すると勝手に人は伸びはじめる。
それがいきいきとした活力、バイタリティである。
探求とは、「知っている」という前提ではなく「知らないのかも」という前提に立つと早い。
失敗してもいい、それを味わうことができればいい。
味わう場を提供できれば教育になる。
弱さがあっても怖さがない世界・社会
を文化的と定義し、ここを目指さないと考えがぶれてしまうだろうとおっしゃいました。
講演を聴きながら、昨年訪れた学校が思いだされました。東京コミュニティスクール、ラーンネットグローバルスクール、ドリームプラネットインターナショナルスクール、ベトナムこどもの家。
みな、自然発生的に沸いてくるものを大切にしていました。まさに「待つ」ということをしていました。「答えがたくさんある」ということや「感じる」ことに重点を置いていました。
すべてが繋がってきて、私の中でまた新たな視点ができ、本当に充実した一日でした。
体中で感じて、考えて、くたくたになったので、食い倒れの街大阪では「食道楽」に走らず、まっすぐに帰ってきました。
講演で伺った「バイタリティのサイクル」、私自身がまわしながら、子どもや、大人の心の中にいる子どもに関わって行こう、とつくづく思ったのでした。
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