2011.
09.
11
何かを手放すと、何かが入ってくる。
空間が生まれると、そこが埋まる。
森の中の、ある一本の樹が年老いて倒れたとすると、
そこに光が差し込むようになります。
光が差し込むと、それまでそこには生育しなかった植物が生えはじめます。
昨年は「断捨離」という言葉が流行りましたが
どなたもなんとなく実感されているのではないでしょうか。
スペースが開くと、そこに自然と代わりになる何かが入るということを。
人間関係においても、然りです。
アイデンティティが崩壊する出来事
立場や役職や、自分とはこういう人だという認識が覆されたり、自らその立場を離れることを決意したりしたとき
その後には、突然だった場合には驚きや動揺が仮にあったとしても、またその後から新しい自分を発見することがあります。
さらに、新しい自分、ではなく、本来の自分、素の自分が顔を見せてくれることもあります。
生まれてこの方、わたしたちは周りの人や環境や社会から影響を受けずにはいられない存在として過ごしてきました。
だから、本当は自分が何を求めているのか、本来はどんな人なのか?を、知ることが困難なこともしばしばです。
思いがけずなにもかもが失われたとき、そのことに気づけるチャンスがあるといえるのかもしれません。
短大を卒業した後、「自営業の父の会社経営に万一のことがあっても大丈夫なように、貯金を持っておかなければならない」と長女の私は思い込んで、自分に向かない銀行勤めを続けていたことがありました。
そして、10年以上が経過したあるとき、幸いなことに、父の経営のために貯金を支払うという機会もなく、ひとかどの貯金を持つに至りました。
そして、今度は「これだけ貯金があるから大丈夫」と思って離婚したとき、思いがけないタイミングで全ての貯金を失いました。
落ち込まなかったと言えば嘘になります。
自分を責めなかったかといえば、それも嘘になります。
それだけではなく、さまざまなダブル、トリプルの困難が襲い掛かった時期でしたが、
あの時、大きく開いたスペースは、創造、クリエイトのスペースとして私の目の前に訪れたのでした。
その翌年から、教えるという活動を始めました。
その蒔いた種が、徐々に育って、今に至ります。
9。11、3。11ともに、それぞれ、わたしたちは何かを失ったと言えるのではないでしょうか。。
そして深く気づくことになりました。
高野山にある美術館で「大日如来(宇宙)は、自然の現象を通して説法をする」と書いてありました。
大自然が地球上にいるわれわれにした説法は、
こうまでしてでも、気づいて欲しいことであったのだと
感じています。
残された、この世の認識では「生きている」わたしたちが
これからどんな創造を生み出すのか?を
愛を持って、何者か(遺伝子学の村上和雄先生の言葉を借りるなら「サムシング・グレート」)が見守ってくれていることでしょう。
わたしたちはこのことから深く深く、気付きを得続けていくことが出来るんだと思います。
どんな些細なことでも、この間気づいたことと似通っているとしても
自ら気づくということを通して、さらに、営々と先祖たちが引き継いでくれた人類と言う命を、進化させていく機会を最大に活かして行きたいものです。
何かを手放すと、そこに何かが入ってくる。
そこに何に入ってきて欲しいのかは?想像し、創造することができる。
それが人であり、大自然の法則であり、宇宙の法則でもあるのだろうな。
と、思うのでした。
人は創造することで進化発展してきました。
では、進化の果てにいるわたしたちは、何を手放し、創造していくのでしょうか。
Photo:Akiko Ohe
空間が生まれると、そこが埋まる。
森の中の、ある一本の樹が年老いて倒れたとすると、
そこに光が差し込むようになります。
光が差し込むと、それまでそこには生育しなかった植物が生えはじめます。
昨年は「断捨離」という言葉が流行りましたが
どなたもなんとなく実感されているのではないでしょうか。
スペースが開くと、そこに自然と代わりになる何かが入るということを。
人間関係においても、然りです。
アイデンティティが崩壊する出来事
立場や役職や、自分とはこういう人だという認識が覆されたり、自らその立場を離れることを決意したりしたとき
その後には、突然だった場合には驚きや動揺が仮にあったとしても、またその後から新しい自分を発見することがあります。
さらに、新しい自分、ではなく、本来の自分、素の自分が顔を見せてくれることもあります。
生まれてこの方、わたしたちは周りの人や環境や社会から影響を受けずにはいられない存在として過ごしてきました。
だから、本当は自分が何を求めているのか、本来はどんな人なのか?を、知ることが困難なこともしばしばです。
思いがけずなにもかもが失われたとき、そのことに気づけるチャンスがあるといえるのかもしれません。
短大を卒業した後、「自営業の父の会社経営に万一のことがあっても大丈夫なように、貯金を持っておかなければならない」と長女の私は思い込んで、自分に向かない銀行勤めを続けていたことがありました。
そして、10年以上が経過したあるとき、幸いなことに、父の経営のために貯金を支払うという機会もなく、ひとかどの貯金を持つに至りました。
そして、今度は「これだけ貯金があるから大丈夫」と思って離婚したとき、思いがけないタイミングで全ての貯金を失いました。
落ち込まなかったと言えば嘘になります。
自分を責めなかったかといえば、それも嘘になります。
それだけではなく、さまざまなダブル、トリプルの困難が襲い掛かった時期でしたが、
あの時、大きく開いたスペースは、創造、クリエイトのスペースとして私の目の前に訪れたのでした。
その翌年から、教えるという活動を始めました。
その蒔いた種が、徐々に育って、今に至ります。
9。11、3。11ともに、それぞれ、わたしたちは何かを失ったと言えるのではないでしょうか。。
そして深く気づくことになりました。
高野山にある美術館で「大日如来(宇宙)は、自然の現象を通して説法をする」と書いてありました。
大自然が地球上にいるわれわれにした説法は、
こうまでしてでも、気づいて欲しいことであったのだと
感じています。
残された、この世の認識では「生きている」わたしたちが
これからどんな創造を生み出すのか?を
愛を持って、何者か(遺伝子学の村上和雄先生の言葉を借りるなら「サムシング・グレート」)が見守ってくれていることでしょう。
わたしたちはこのことから深く深く、気付きを得続けていくことが出来るんだと思います。
どんな些細なことでも、この間気づいたことと似通っているとしても
自ら気づくということを通して、さらに、営々と先祖たちが引き継いでくれた人類と言う命を、進化させていく機会を最大に活かして行きたいものです。
何かを手放すと、そこに何かが入ってくる。
そこに何に入ってきて欲しいのかは?想像し、創造することができる。
それが人であり、大自然の法則であり、宇宙の法則でもあるのだろうな。
と、思うのでした。
人は創造することで進化発展してきました。
では、進化の果てにいるわたしたちは、何を手放し、創造していくのでしょうか。

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